Indiebase編集部です。
鳥のように長く突き出したくちばし、丸いガラスの目、全身を覆う長い外套。まるでホラー映画に登場する怪人のようなこの姿は、かつてヨーロッパでペスト患者に対応した「ペスト医師(Plague Doctor)」を象徴するものです。
しかし、この奇妙なマスクは人々を怖がらせるためのものではありません。感染症の原因が解明されていなかった時代、医師たちが自分の身を守ろうとして考案した防護具でした。

なぜマスクは鳥のくちばしの形をしていたのか?
ペスト医師の特徴的な衣装は、17世紀のヨーロッパで登場したとされています。フランス王室に仕えた医師シャルル・ド・ロルムが、全身を覆う防護服を考案した人物として知られています。
当時のヨーロッパでは、病気は腐敗した空気や悪臭によって広がると考えられていました。これは「瘴気(しょうき)説」と呼ばれる考え方です。細菌の存在が知られていなかった時代、人々は悪臭そのものを病気の原因として恐れていました。
そこで考えられたのが、鳥のくちばしのように長いマスクです。内部にはローズマリーやラベンダーなどの香草、香辛料などを詰め、吸い込む空気を浄化できると信じられていました。
くちばしの長さは、香草を収める空間を確保するためのものでした。医師たちは香りのある空気を吸うことで、ペストから身を守ろうとしたのです。
この奇妙な姿を伝える代表的な資料が、1656年に出版されたパウルス・フュルストの銅版画『ローマのくちばし医師』です。
版画には、鳥の頭を思わせるマスクを着け、長い杖を持った人物が描かれています。足元には小さな悪魔のような存在も登場します。
実は、この版画には風刺的な意味も込められていました。添えられた詩は、奇妙な格好をした医師を揶揄する内容を含んでいます。
現在では感染症と戦った医師の象徴として知られる姿ですが、当時の人々にとっても、その異様な外見は風刺の対象になるほど目立つものだったのです。
全身を覆う衣装と長い杖にはどんな役割があったのか?

ペスト医師の装備は、マスクだけではありませんでした。
長い外套、手袋、ブーツ、帽子などで全身を覆い、肌の露出をできるだけ少なくしていました。外套にはワックスを塗った布や革などが用いられ、患者との直接的な接触を減らすことが意図されていました。
また、ペスト医師の姿に欠かせないのが、手に持った長い杖です。
この杖は、患者の身体や衣服に直接触れずに診察したり、患者との距離を保ったりするために使われたとされています。
興味深いのは、ペスト医師の防護服が必ずしも鳥のくちばし型ではなかったことです。
1720年、フランス南部の港湾都市マルセイユでは大規模なペストが流行し、多くの住民が命を落としました。
この流行時の衣装を描いた『マルセイユのペスト医師』では、顔を覆う防護具は鳥のくちばしというより、頭全体を包む尖った頭巾のような形をしています。
現在では鳥のマスクがペスト医師の象徴となっていますが、実際の装備は地域や時代によって異なり、すべての医師が同じ格好をしていたわけではありません。
また、ペスト医師は患者の治療だけでなく、死者の確認や流行状況の記録なども担いました。当時はペストの原因も有効な治療法もわからず、医師たちにできることは限られていました。
患者に近づくこと自体が危険だった時代、全身を覆う衣装は、十分な効果が保証されていなくても必要と考えられた装備だったのです。
黒死病の時代にもペスト医師はいたのか?
ペストといえば、14世紀のヨーロッパを襲った「黒死病」が有名です。
1347年頃から広がった大流行では、ヨーロッパ人口の相当な割合が死亡したと推定されています。都市や村では多くの人々が命を落とし、社会や経済にも深刻な影響を与えました。
しかし、現在よく知られる鳥のくちばし型マスクが登場したのは、それから約300年後の17世紀です。
つまり、14世紀の黒死病の流行時に、医師たちがこのマスクを着けて患者を診察していたわけではありません。
黒死病の時代にも病人を診察する医師は存在しましたが、現在のペスト医師のイメージを代表する衣装は、後の時代に生まれたものです。
現在では、ペストはペスト菌によって引き起こされる感染症であることがわかっています。主に感染したノミや動物との接触によって広がり、肺ペストの場合は人から人への飛沫感染も起こります。
香草の匂いによって感染を防ぐという当時の考え方は誤っていました。しかし、身体を覆い、患者との接触を減らそうとする発想には、現代の感染防護にも通じる部分があります。
ペスト医師のくちばしマスクは、やがて疫病や死の恐怖を象徴する存在となり、現代のホラー映画やゲームにも受け継がれました。
その原型を伝える1656年の銅版画は、感染症から身を守ろうとした医師の姿であると同時に、当時の人々がその奇妙な装備をどのように見ていたのかを伝える風刺画でもあります。
