Indiebase編集部です。
華やかな衣装をまとった王や教皇が、骸骨のような人物と手をつないで歩いています。骸骨たちは楽器を演奏し、踊るような仕草で人々をどこかへ連れていこうとしています。
これは、中世ヨーロッパで広まった「死の舞踏(Danse Macabre)」と呼ばれる美術表現です。
死を擬人化した骸骨が、王侯貴族から農民まで、あらゆる身分の人々を踊りに誘う。その奇妙な光景には、富や権力を持つ者も死から逃れられないという教訓が込められていました。

なぜ中世の人々は、死をこれほど不気味で、どこか滑稽な姿に描いたのでしょうか。
黒死病が広めた、死への恐怖と「メメント・モリ」
死の舞踏がヨーロッパで広まったのは、14世紀末から15世紀にかけてのことです。
当時の社会に大きな影響を与えたのが、1347年頃からヨーロッパ各地で猛威を振るった黒死病でした。ペストの大流行によって膨大な数の人々が命を落とし、都市や村では家族や隣人が次々と亡くなりました。
戦争や飢饉も重なり、死は人々にとって日常のすぐ近くにあるものでした。
こうした時代の死生観を理解するうえで重要なのが、ラテン語で「死を忘れるな」を意味する「メメント・モリ」という考え方です。
キリスト教では、人間の命には限りがあり、死後には神の裁きを受けると考えられていました。そのため、生きている間に自らの行いを省みることが重要とされていたのです。
死の舞踏は、こうした宗教的な教訓を視覚的に伝える役割を果たしました。
教会の壁画や版画には、骸骨に手を引かれる人々が次々と登場します。そこでは王冠も豪華な衣装も、死を遠ざける役には立ちません。
また、死の舞踏には絵だけでなく、死者と生者が言葉を交わす詩が添えられることもありました。死者が相手を呼び出し、生者が戸惑いや恐怖を口にするという形式です。
恐ろしい主題でありながら、骸骨が踊ったり楽器を奏でたりする姿には、皮肉やユーモアも含まれていました。
教皇から王まで、死者と手をつなぐノトケの『死の舞踏』
死の舞踏を代表する作品のひとつが、15世紀後半に制作されたベルント・ノトケの工房による『死の舞踏』です。

現在、エストニアの首都タリンにある聖ニコラス教会に、その一部が残されています。
横長の作品には、豪華な衣装をまとった人々と、布をまとった骸骨のような死者が交互に描かれています。
左端には説教をする人物が立ち、その隣では死者が楽器を演奏しています。そこから教皇、皇帝、皇后、枢機卿、王へと列が続きます。
教皇は赤と白の法衣をまとい、皇帝は王冠と豪華な衣装を身に着けています。皇后も鮮やかな赤い衣装で描かれ、身分の高さが一目でわかります。

対照的に、彼らを連れていく死者たちは痩せ細った身体をさらし、軽やかな足取りで踊っています。
人物たちの足元には、死と生者が交わす言葉が記された帯状の文章が続いています。
現在残されているのは作品の一部分だけですが、もともとはさらに長い作品だったと考えられています。
この絵の特徴は、死者がただ恐ろしい存在として立っているのではなく、生きている人々を次々と踊りの列へ引き込んでいることです。
教皇や皇帝が威厳を保とうとしても、死者たちは気にする様子もなく、その手を取って歩き続けています。
ホルバインが描いた、権力者と商人を襲う死
16世紀になると、死の舞踏は新しい表現へと発展します。
その代表が、ドイツ出身の画家ハンス・ホルバイン(子)が手がけた木版画連作『死の舞踏』です。
ノトケの作品では人々が一列になって進んでいましたが、ホルバインは、それぞれの人物が暮らす場所や仕事の場面に死を登場させました。
『教皇』では、玉座に座った教皇の背後に骸骨が顔を寄せています。

周囲には聖職者たちが集まり、教皇は権威を示す冠を手にしています。そのすぐ後ろに死が立っているという構図には、宗教的権力に対する鋭い皮肉が込められています。
一方、『商人』の舞台は船が停泊する港です。

積み上げられた荷物のそばで、商人が仕事をしています。その背後から骸骨が現れ、商人の衣服をつかんで連れ去ろうとしています。
商人は驚いて両手を上げていますが、目の前にはまだ取引のための荷物が残されています。
ホルバインは、教皇には宗教的な権威、商人には富や商売という、それぞれが大切にしているものを描き込んだうえで、そこへ死を登場させました。
15世紀のノトケが身分の異なる人々を一列に並べたのに対し、ホルバインは一人ひとりの生活に踏み込み、権力や財産に執着する人間の姿を風刺しています。
死の舞踏に登場する骸骨たちは、恐ろしい顔で人々を脅すだけではありません。楽器を奏で、踊り、ときには相手をからかうような仕草まで見せます。人間にとって最も恐ろしいはずの死を、どこか陽気で滑稽な存在として描いたことが、この奇妙な芸術の大きな特徴です。
