Indiebase編集部です。
広大な黄土色の空間に、ぽつんと浮かぶ小さな犬の頭。
犬は斜め上を見つめていますが、その先には何も描かれていません。体は茶色い斜面に隠れ、まるで砂に飲み込まれようとしているかのようです。

スペインの巨匠フランシスコ・デ・ゴヤが描いた『砂に埋もれる犬』(1819〜1823年頃、スペイン・プラド美術館所蔵)。
なぜゴヤは、これほど寂しい絵を描いたのでしょうか。
聴力を失い、病に苦しんだゴヤの晩年
ゴヤはスペイン王室に仕え、宮廷画家として成功を収めた人物でした。
しかし1790年代、重い病によって聴力を失います。さらに1819年には、命に関わるほどの大病を経験しました。
同じ年、73歳のゴヤはマドリード郊外に一軒の家を購入します。
その名も「聾者の家(キンタ・デル・ソルド)」。
以前の所有者が耳の不自由な人物だったことに由来する名前ですが、ゴヤ自身も聴力を失っていました。
当時のスペインは政治的混乱の真っただ中。そんな時期にゴヤが自宅の壁へ描き始めたのが、後に「黒い絵」と呼ばれる14点の作品群でした。
怪物も魔女もいない、異様な一枚
「黒い絵」には、我が子を食らう巨人を描いた『我が子を食らうサトゥルヌス』や、不気味な人物たちが集まる『魔女の夜宴』など、恐ろしい作品が並びます。
ところが『砂に埋もれる犬』には、怪物も魔女も登場しません。
描かれているのは、小さな犬の頭だけ。
犬は砂に埋もれているのか、水に沈みかけているのか。それとも斜面の向こうを見上げているだけなのか。
何が起きているのかさえ、わからないのです。
犬は何を見つめているのか?

犬の視線の先には、助けてくれる人も、逃げ道も描かれていません。
ただ、果てしなく広がる空間があるだけです。
ゴヤがこの犬に何を託したのか、確かな記録は残されていません。
自身の老いや孤独を重ねたのでしょうか。それとも、人間には抗えない運命を描いたのでしょうか。
そもそも「黒い絵」は、ゴヤが自宅の壁に描いた私的な作品です。なぜこのような絵を描いたのか、その理由もわかっていません。
怪物も流血もない。それなのに、見る人を不安にさせる。
何も描かれていないことが、これほど恐ろしく感じられる。
それこそが『砂に埋もれる犬』の不思議な魅力なのかもしれません。
(文:Indiebase編集部)
