Indiebase編集部です。
暗雲に覆われた空の下、山々を越えるほど巨大な男が立っています。筋肉質な上半身をあらわにし、拳を握りしめたその姿は、まるで世界を破壊する怪物のようです。
しかし、画面の下に目を向けると、さらに奇妙な光景が広がっています。
大勢の人々が荷車や家畜とともに逃げ惑い、地上は大混乱に陥っているのです。
長年ゴヤの作品とされてきた『巨人』(別名『コロッソ』、1808〜1812年頃、スペイン・マドリードのプラド美術館所蔵)。現在では作者をめぐって議論が続いています。
ところが、この作品には大きな謎があります。巨人の正体だけでなく、誰が描いたのかさえ議論されているのです。
巨人は何を象徴しているのか?
この作品が制作されたと考えられる時期、スペインは戦争の渦中にありました。
1808年、ナポレオン率いるフランス軍の支配に対し、スペイン各地で抵抗運動が発生。半島戦争と呼ばれる激しい戦いが続きました。
村を追われる人々、破壊される街、戦争によって失われる命。
ゴヤはこの時代の惨状を目撃し、版画集『戦争の惨禍』などで人間の残酷さを描いています。
『巨人』も、こうした戦争の恐怖と結びつけて解釈されてきました。
巨大な男は、スペインを襲う戦争そのものなのでしょうか。
あるいは、侵略者に立ち向かうスペインの抵抗精神を象徴しているのでしょうか。
実際、この巨人を祖国を守る力の象徴と見る解釈もあります。
興味深いのは、巨人が逃げ惑う人々の方を向いていないことです。
人々は恐怖に駆られて逃げていますが、巨人が彼らを直接襲っている様子は描かれていません。
逃げ惑う人々と、動かないロバ

画面下部には、逃げる人々や馬、牛、荷車などが小さく描かれています。
巨大な男との大きさの違いは圧倒的です。
しかし、よく見ると、混乱の中で一頭のロバが立ち止まっています。
人々も動物も逃げ出しているのに、このロバだけは動こうとしません。
なぜ、ロバは逃げないのでしょうか。
危険に気づいていないのか。それとも、周囲の混乱とは無関係に立ち尽くしているのか。
その意味は明らかではありませんが、絵の中に奇妙な静けさを生み出しています。
さらに、巨人の下半身は雲や山の陰に隠れ、地面に立っているのか、空中に浮かんでいるのかも判然としません。
現実の風景でありながら、悪夢のような非現実性を感じさせる構図です。
実はゴヤの作品ではない?作者をめぐる論争
『巨人』は長い間、ゴヤの作品として扱われてきました。
ところが2008年、所蔵先のプラド美術館の研究者が、ゴヤ本人の作品ではない可能性を指摘します。
その後、美術館は2009年の研究報告で、ゴヤの真筆とする従来の見解に疑問を示しました。
筆遣いや制作技法などが、ゴヤの確実な作品と異なると判断されたためです。
一時はゴヤの弟子アセンシオ・フリアの名前も候補として挙げられましたが、作者が確定したわけではありません。
一方、ゴヤ本人の作品と考える研究者もおり、帰属をめぐる議論は続いています。
現在では、ゴヤ本人ではなく、その追随者による作品と位置づけられています。
作者が誰であっても、巨大な男と逃げ惑う人々が生み出す恐怖は変わりません。
この絵で本当に恐ろしいのは、巨人そのものなのでしょうか。それとも、何が起きているのか分からないまま逃げ続ける、人々の姿なのでしょうか。
(文:Indiebase編集部)
