Indiebase編集部です。
ノルウェーの画家エドヴァルド・ムンクが描いた『相続』(1897〜1899年、ノルウェー・オスロのムンク美術館所蔵)。黒い服を着た女性がハンカチで涙を拭い、その膝には青白い赤ん坊が横たわっています。
赤ん坊は異様に痩せ細り、胸には赤い斑点が浮かんでいます。大きく見開かれた目は、こちらをじっと見つめているようです。
実はこの赤ん坊、母親から梅毒という病気を受け継いで生まれてきた子どもなのです。
母から子へ受け継がれた「遺産」
19世紀のヨーロッパでは、梅毒は恐れられた感染症でした。妊娠中の母親から胎児へ感染すると、赤ん坊に重い症状が現れ、命を落とすこともありました。
ムンクがこの絵を描くきっかけとなったのは、パリのサン=ルイ病院を訪れた経験です。
そこで彼は、梅毒に感染した赤ん坊を抱いて泣く母親を目撃しました。
作品の題名『相続』が意味するのは、財産や土地ではありません。親から子へと受け継がれてしまった病気です。
当時は「遺伝性梅毒」とも呼ばれていましたが、実際には遺伝病ではなく、母子感染によって起こる感染症です。
聖母マリアと幼いキリストを反転させた絵

この作品には、もう一つ重要な仕掛けがあります。
母親が膝に赤ん坊を抱く構図は、西洋美術で繰り返し描かれてきた「聖母子像」を思わせます。
しかし、ここにいるのは祝福された母子ではありません。
母親は涙を流し、赤ん坊は生まれながらに重い病を背負っています。キリスト教美術で希望や救済を象徴してきた母子の姿が、苦痛と絶望の場面に置き換えられているのです。
さらに、母親のスカートに描かれた落ち葉の模様は、近づく死を暗示すると解釈されています。
発表当時、観客は怒り、笑った
この絵は1903年、パリのアンデパンダン展で展示されました。
しかし、当時の観客の反応は厳しいものでした。
性病という公の場で語ることを避けられていた題材を、あまりにも生々しく描いたからです。記録には、観客の間で嘲笑と憤慨が巻き起こったことが残されています。
ムンク自身、幼い頃に母親を結核で亡くし、姉も同じ病気で失っています。病気と死は、彼の芸術を生涯にわたって支配した主題でした。
この絵で最も恐ろしいのは、赤ん坊の異様な姿だけではありません。
自分では何も選べないまま、この世に生まれ、苦しみを背負わされてしまったこと。その不条理こそが、ムンクの描こうとした恐怖だったのかもしれません。
(文:Indiebase編集部)
