Indiebase編集部です。
処刑台を取り囲む大勢の群衆。見物席には人々がひしめき合い、周囲では食べ物や飲み物を売る商人たちが商売をしています。
18世紀のイギリスで描かれた版画には、現代では考えられない光景が残されています。
かつてヨーロッパでは、犯罪者の公開処刑が人々を集める一大イベントとなっていました。処刑の日には大勢の見物客が押し寄せ、なかには特等席を確保して見物する人々もいました。
なぜ、人間が命を奪われる場面が娯楽として受け入れられていたのでしょうか。
なぜ人々は公開処刑を見に集まったのか?
中世から近代にかけて、ヨーロッパ各地では広場や市場など、人々の目に触れる場所で処刑が行われていました。
公開処刑の本来の目的は、犯罪者に刑罰を与えると同時に、罪を犯せばどのような結末を迎えるのかを人々に見せつけることでした。
しかし、処刑場に集まる人々が、必ずしも恐怖に震えていたわけではありません。
当時は現代のように娯楽が豊富ではなく、大勢の人々が集まる公開処刑は、日常から離れた特別な出来事でもありました。
特に注目を集めたのは、世間を騒がせた犯罪者の処刑でした。人々は事件の結末を自分の目で確かめようと集まり、罪人が最後に何を語るのか、どのような最期を迎えるのかにも関心を寄せました。
大勢の見物客が集まることで、処刑場の周辺には飲食物を売る商人や見物席を提供する人々も現れ、処刑は一種の興行のような側面を持つようになりました。
その様子を鮮明に伝えているのが、イギリスの画家ウィリアム・ホガースによる『タイバーンで処刑される怠惰な徒弟』です。

作品には、絞首台へ向かう罪人の馬車と、それを取り囲む群衆が描かれています。右上には観客で埋め尽くされた見物席があり、手前では物売りが商売をしています。
ホガースはこの版画を、怠惰な若者が犯罪に手を染め、最後には処刑されるという道徳的な物語の一場面として制作しました。
つまり、実際の処刑をそのまま記録したものではなく、当時の社会を風刺した作品です。それでも、処刑場が人々の好奇心を集める場所だったことはよく伝わってきます。
ただし、すべての観客が処刑を楽しんでいたわけではありません。罪人に同情する人、刑罰の残酷さに反発する人、宗教的な教訓を得ようとする人など、見物の理由はさまざまでした。
公開処刑は娯楽であると同時に、人々の感情がむき出しになる場所でもあったのです。
公開処刑は国家の権力を示す儀式でもあった
公開処刑には、国家や君主の権威を示すという重要な役割もありました。
処刑の前には罪状が読み上げられ、罪人が刑場へ連行される様子そのものが儀式として演出されました。人々の前で刑罰を執行することは、法を破った者に対する権力の強さを示す行為だったのです。
その象徴的な出来事が、1793年1月21日に行われたフランス国王ルイ16世の処刑です。
フランス革命によって王政が廃止されると、ルイ16世は裁判にかけられ、パリの革命広場でギロチンによって処刑されました。
当時の様子を描いた版画には、処刑人が切り落とされた国王の首を高く掲げる姿が残されています。

周囲には大勢の兵士や群衆が集まり、国王の死が公衆の面前で示されています。
かつて絶対的な権力を持っていた国王が、人々の前で処刑される。これは単なる刑罰ではなく、王政の終焉と新しい政治体制の成立を象徴する出来事でした。
公開処刑はなぜ廃止されていったのか?
18世紀から19世紀にかけて、ヨーロッパでは公開処刑のあり方が次第に見直されていきました。
啓蒙思想の広がりとともに、残酷な刑罰への批判が強まり、処刑を見世物にすることが本当に犯罪の抑止につながるのかという疑問も生まれました。
また、群衆が必ずしも権力者の意図どおりに反応しないことも問題でした。
罪人に同情する声が上がったり、処刑人に怒りが向けられたり、ときには群衆が騒動を起こすこともありました。国家が権威を示すための儀式が、逆に秩序を乱す原因となったのです。
イギリスでは1868年に公開処刑が廃止され、以後は刑務所の内部で執行されるようになりました。
フランスでは公開処刑がさらに長く続き、最後の公開ギロチン処刑が行われたのは1939年のことでした。
公開処刑が姿を消した背景には、人道的な批判だけでなく、刑罰を群衆の見世物から切り離そうとする国家の方針転換もありました。
イギリスで公開処刑が廃止されたのは1868年。しかし、フランスでは1939年までギロチンによる公開処刑が続いていました。
最後の公開ギロチン処刑が行われた1939年は、第二次世界大戦が始まった年でもあります。大勢の人々が処刑を見物する光景は、決して遠い中世だけのものではなかったのです。
