Indiebase編集部です。
男が別の男の首に噛みつき、髪をつかんで激しく押さえつけています。
その背後では、翼を広げた悪魔が不気味な笑みを浮かべています。
左側に立つ二人の男性は、この惨劇を静かに見つめています。
フランスの画家ウィリアム・アドルフ・ブグローが描いた『地獄のダンテとウェルギリウス』(1850年、パリ・オルセー美術館所蔵)。
実はこの絵、美しい女性や天使を描くことで知られるブグローにとって、極めて異色の作品なのです。
首に噛みつく男の正体は?
この絵の題材は、イタリアの詩人ダンテが書いた『神曲』の「地獄篇」です。
舞台は、地獄の第8圏。ここでは、さまざまな欺瞞や偽造の罪を犯した者たちが罰を受けています。
首に噛みついている男は、ジャンニ・スキッキ。
彼は死者になりすまして遺言を偽り、財産を手に入れた人物として描かれています。
噛みつかれているのは、錬金術師カポッキオ。金属の偽造に関わった罪で地獄に落とされました。
そして左側で見守るのが、詩人ダンテと、彼を地獄へ案内する古代ローマの詩人ウェルギリウスです。
ブグローは、地獄で罰を受ける二人の亡者を、筋肉がねじれるほど激しい肉体の衝突として描きました。
2度の落選。若き画家が挑んだ衝撃作
この作品を描いたとき、ブグローはまだ25歳でした。
彼は1848年と1849年、若手画家の登竜門だった「ローマ賞」の獲得に失敗しています。
成功を強く望んでいたブグローは、人々を驚かせる大作に挑みました。
それが『地獄のダンテとウェルギリウス』です。
高さ約2.8メートルという巨大な画面に、極端にねじれた人体、むき出しの筋肉、怪物のような悪魔を描き込みました。
1850年のサロンに出品された作品は、批評家テオフィル・ゴーティエから高く評価されます。
彼が称賛したのは、画面から伝わる激しさと力強さでした。

美の巨匠が二度と戻らなかった世界
ブグローは後に、神話の女神や天使、母子像などを描く画家として大きな成功を収めます。
滑らかな肌、美しく整った人体、理想化された人物像。

ブグローの代表作『ヴィーナスの誕生』(1879年)
そうした作品を知ってからこの絵を見ると、同じ画家が描いたとは思えないほどです。
オルセー美術館の公式解説でも、ブグローはこの作品で恐怖と残酷さの表現に挑んだものの、その後の画業では同じ方向を追求しなかったと説明されています。
美しさを描くことで名声を得た画家が、若き日に残した凄惨な地獄絵図。
ブグローのもうひとつの顔を伝える作品です。
(文:Indiebase編集部)
