Indiebase編集部です。
「お前は魔女だ」
その一言で、昨日まで普通に暮らしていた女性が捕らえられ、裁判にかけられ、処刑される。
中世から近世のヨーロッパでは、悪魔と契約して人々に災いをもたらす「魔女」が実在すると信じられ、多くの人々が魔女として告発されました。
不作、疫病、家畜の死、原因不明の病気。身の回りで不幸が起こると、その原因を魔女の仕業だと考える人々がいたのです。
しかし、魔女狩りの犠牲となった人々の多くは、特別な力を持たない普通の住民でした。
なぜ、人々は魔女の存在を信じ、隣人を告発し、時には処刑にまで追い込んだのでしょうか。
魔女狩りとは?いつ、どこで起きたのか
魔女狩りとは、魔術によって人々に危害を加えたり、悪魔と契約したりしていると疑われた人々を告発し、裁判や処罰の対象とした歴史的な迫害です。
ヨーロッパでは古くから魔術や呪いに関する信仰が存在していましたが、大規模な魔女狩りが広がったのは、主に15世紀後半から18世紀にかけてのことです。
特に16〜17世紀には、現在のドイツ、スイス、フランス、スコットランドなどを中心に、多くの魔女裁判が行われました。
一般には「中世の魔女狩り」というイメージが強いものの、魔女狩りが最も激しかったのは、中世ではなく近世ヨーロッパです。
魔女狩りでは何人が処刑された?
近世ヨーロッパでは、おおむね4万〜6万人程度が魔女として処刑されたと推計されています。
かつては数百万人もの女性が殺されたという数字が語られることもありましたが、現在の歴史研究では支持されていません。
犠牲者の多くは女性でしたが、男性も魔女として告発され、処刑されました。
また、魔女狩りの規模は地域によって大きく異なり、激しい迫害が起きた地域がある一方、裁判が比較的少なかった地域もあります。
なぜ魔女狩りは起きたのか?
魔女狩りは、単に人々が迷信深かったから起きたわけではありません。
宗教的な対立、社会不安、司法制度、地域社会の人間関係など、複数の要因が重なって拡大しました。
悪魔と契約する魔女が実在すると信じられた
中世後期のヨーロッパでは、魔女は単に呪いをかける人物ではなく、悪魔と契約し、キリスト教社会を脅かす存在だと考えられるようになりました。
魔女は悪魔から力を授かり、病気や不作を引き起こし、夜には集会を開いて悪魔を崇拝すると信じられました。
こうした集会は「魔女のサバト」と呼ばれます。

もちろん、魔女たちが悪魔と契約して超自然的な力を使っていたという証拠はありません。
しかし、当時の一部の神学者や裁判官は、こうした魔女の存在を現実の脅威として受け止めていました。
疫病や不作などの社会不安が広がった
近世ヨーロッパでは、疫病、飢饉、戦争、異常気象などが人々の生活を脅かしていました。
家畜が突然死んだ。子どもが病気になった。畑の作物が枯れた。
こうした出来事が起こると、人々は不幸の原因を身近な誰かの呪いに求めることがありました。
近隣住民との争いや以前からの悪評をきっかけに、特定の人物が魔女だと疑われることもありました。
宗教改革によって対立が激化した
16世紀のヨーロッパでは宗教改革が起こり、カトリックとプロテスタントの対立が深まりました。
宗教的な正しさをめぐる争いのなかで、悪魔や異端への警戒が強まる地域もありました。
魔女狩りはカトリック地域だけでなく、プロテスタント地域でも行われています。
また、魔女裁判の多くは教会の裁判所だけでなく、世俗の裁判所によっても行われました。
拷問によって告発が連鎖した
魔女裁判が拡大した重要な要因の一つが、拷問を伴う取り調べです。
激しい苦痛を受けた被告人は、実際には行っていない魔術や悪魔との契約を認めてしまうことがありました。
さらに、取り調べのなかで「ほかの魔女の名前」を挙げるよう求められることもありました。
その結果、一人の告発から別の住民への告発が生まれ、魔女裁判が連鎖的に拡大していきました。
ただし、拷問の使用や裁判の手続きは地域によって異なり、すべての魔女裁判で拷問が行われたわけではありません。
地域社会の対立や偏見が告発につながった
魔女として疑われた人々の多くは、村や町で暮らす普通の住民でした。
近隣住民との口論、金銭の貸し借り、家族間の対立などが、魔女の告発につながることもありました。
特に社会的に弱い立場に置かれた女性や、周囲から孤立していた人物は、疑いを向けられやすい場合がありました。
ただし、犠牲者がすべて貧しい高齢女性だったわけではありません。男性や裕福な人々も告発され、処刑されています。
魔女裁判では何が行われたのか?
魔女裁判では、魔術によって危害を加えたという疑惑や、悪魔との契約が罪として扱われました。
当時の裁判では、被告人の身体にあるほくろや傷跡などが「悪魔の印」と疑われる場合がありました。

また、近隣住民の証言や過去の口論、不可解な出来事などが告発の根拠となることもありました。
一部の地域では、被告人を水に浮かべる「水の試験」のような方法も用いられました。
こうした方法は、魔女の存在を科学的に証明するものではありませんでした。
魔女は火あぶりにされたのか?
魔女狩りの処刑方法としてよく知られているのが、火あぶりです。

実際にヨーロッパ大陸の多くの地域では、魔女として有罪判決を受けた人々が火刑に処されました。
一方、イングランドや北米のイギリス植民地では、絞首刑が用いられました。
そのため、魔女狩りの犠牲者がすべて火あぶりにされたわけではありません。
また、告発された人々が必ず処刑されたわけでもなく、無罪となったり、裁判が打ち切られたりする場合もありました。
『魔女の鉄槌』とは?
魔女狩りの歴史を語るうえで重要なのが、1486〜1487年頃に成立・刊行された『魔女の鉄槌(Malleus Maleficarum)』です。

この書物は、ドミニコ会士ハインリヒ・クラーマーによって著され、魔女の存在や魔術の危険性、魔女を裁く方法などを論じました。
特に女性を魔術と結びつける偏見が強く表れており、後世の魔女狩りを象徴する書物として知られています。
ただし、ヨーロッパ全域の魔女裁判で公式な法律として採用されていたわけではありません。
実際に起きた有名な魔女狩り
ヴュルツブルク魔女裁判|ドイツで起きた大規模な迫害
17世紀前半、現在のドイツにあたるヴュルツブルクでは、大規模な魔女裁判が行われました。
特に1620年代後半から1630年代初頭にかけて、多くの人々が魔女として告発され、処刑されました。
犠牲者には女性だけでなく、男性や子ども、社会的地位の高い人物も含まれていました。
ヴュルツブルクの魔女裁判は、近世ヨーロッパにおける大規模な魔女狩りの代表例です。
スコットランドの魔女狩り|国王も魔術を恐れた
スコットランドでも、16〜17世紀に多くの魔女裁判が行われました。
特に1590年代には、国王ジェームズ6世が魔女裁判に強い関心を示しました。
ジェームズ6世は、後にイングランド王ジェームズ1世となる人物です。
彼は1597年に『デモノロジー(Daemonologie)』を著し、魔術や悪魔の存在について論じました。
スコットランドの魔女狩りは、王権と宗教的な信念が結びついた事例として知られています。
セイラム魔女裁判|1692年に北米で起きた事件
魔女狩りの歴史で特に有名なのが、1692年に北米のマサチューセッツ湾植民地で起きたセイラム魔女裁判です。
セイラム村では、少女たちの不可解な言動をきっかけに、複数の住民が魔術の疑いで告発されました。

裁判は周辺地域にも広がり、多くの人々が逮捕されました。
最終的に19人が絞首刑となり、1人の男性が石を積み重ねる圧迫によって死亡しました。
さらに、拘禁中に亡くなった人々もいました。
セイラム魔女裁判は、集団的な恐怖や告発が深刻な結果をもたらした事件として、現在も広く知られています。
なぜ魔女狩りは終わったのか?
17世紀後半から18世紀にかけて、ヨーロッパの多くの地域では魔女裁判が減少していきました。
その背景には、裁判制度の変化や、魔術に対する考え方の変化がありました。
魔女の存在を前提とする証言や、拷問による自白の信頼性に疑問が向けられるようになり、裁判に慎重な姿勢を取る司法当局も増えていきました。
また、自然現象や病気を超自然的な力ではなく、自然的な原因から説明しようとする考え方も広がっていきました。
ただし、魔女狩りが一度に終わったわけではありません。地域によって衰退の時期は異なり、18世紀にも魔女裁判や処刑が行われた場所がありました。
現在でも「魔女狩り」という言葉は、十分な根拠がないまま特定の人物や集団を非難し、社会的に追い詰める行為を表す比喩として使われています。
かつての魔女裁判では、隣人の証言や拷問による自白が、実際には存在しない犯罪を立証する証拠として扱われました。
魔女狩りの歴史には、恐怖や偏見が司法制度と結びついたときに何が起こるのかが記録されています。
(文:Indiebase編集部)
