Indiebase編集部です。
西洋文学最古の古典のひとつとして、約3000年にわたって読み継がれてきた古代ギリシャの叙事詩『イリアス』。
アキレウス、ヘクトル、アガメムノン、オデュッセウス。そして彼らの戦いに介入するゼウス、アテナ、アポロンといった神々。紀元前から語り継がれてきた物語でありながら、その登場人物たちの怒り、嫉妬、友情、愛情、悲しみは驚くほど現代的です。
映画『オデュッセイア』の原作として知られるホメロスの『オデュッセイア』とも深くつながっており、両作品の背景にあるのが「トロイア戦争」です。
今回は『イリアス』とはどんな作品なのか、物語のあらすじから主要登場人物、神々、トロイア戦争との関係まで、初めて読む人にもわかりやすく解説します。
※この記事では『イリアス』の物語について結末を含めて解説しています。
『イリアス』とは?
『イリアス』は、古代ギリシャの詩人ホメロスによるものと伝えられている長編叙事詩です。
成立年代については諸説ありますが、おおむね紀元前8世紀ごろに成立したと考えられています。全24歌、約1万5,000行からなる巨大な作品で、西洋文学に絶大な影響を与えてきました。
題材となっているのは、ギリシャ軍とトロイア軍が戦った「トロイア戦争」。
ただし、ここには大きな誤解があります。
『イリアス』は、トロイア戦争の始まりから終わりまでを描いた物語ではありません。
物語が扱うのは、10年間に及んだとされるトロイア戦争の最終盤。その中でも、ギリシャ軍最強の英雄アキレウスが激しい「怒り」にとらわれた短い期間を中心に描いています。
実際、『イリアス』冒頭で最初に提示される重要なテーマも、アキレウスの「怒り」です。
壮大な戦争叙事詩でありながら、その中心にあるのは一人の人間の感情なのです。
そもそも「トロイア戦争」とは?
物語を理解するために、まずトロイア戦争について押さえておきましょう。
ギリシャ神話では、戦争の発端には「パリスの審判」と呼ばれる有名な出来事があったとされています。
神々の宴に招かれなかった不和の女神エリスが、「最も美しい女神へ」と記された黄金のリンゴを投げ入れたことから、ヘラ、アテナ、アフロディテの三女神がその所有を争います。そこで、トロイアの王子パリスが誰が最も美しいかを判定することになります。

三柱の女神は、それぞれパリスへ褒美を提示しました。
ヘラは王としての権力、アテナは戦いでの勝利、そしてアフロディテは絶世の美女ヘレネを妻として与えることを約束したと伝えられています。
パリスが選んだのはアフロディテでした。
ところが、その「世界で最も美しい女性」とされたヘレネは、すでにスパルタ王メネラオスの妻でした。
やがてパリスはヘレネを伴ってトロイアへ向かいます。妻を奪われたメネラオスは兄アガメムノンらギリシャ各地の英雄たちとともに大軍を組織し、トロイアへ遠征します。
こうして始まったとされるのがトロイア戦争です。
ギリシャ軍にはアキレウス、オデュッセウス、大アイアス、ディオメデスら英雄が集結。一方のトロイア側には、王子ヘクトルを筆頭とする戦士たちがいました。
戦争は、実に10年にも及んだと伝えられています。
『イリアス』のあらすじ
アキレウスとアガメムノンの対立
『イリアス』は、トロイア戦争の途中から始まります。
ギリシャ軍を率いる総大将アガメムノンは、戦利品としてクリュセイスという女性を自分のものにしていました。しかし彼女の父クリュセスは、アポロンに仕える神官でした。
娘を返してほしいという父の願いをアガメムノンが拒絶したため、怒ったアポロンはギリシャ軍へ災厄をもたらします。
追い詰められたアガメムノンは、ついにクリュセイスを返還することを決断。
ところが、その代償としてアキレウスに与えられていた女性ブリセイスを奪ってしまいます。
これにアキレウスが激怒します。
ギリシャ軍最強の戦士でありながら、自らの名誉を傷つけられたアキレウスは戦場から退き、戦うことを拒否してしまうのです。

《アキレウスの陣営を訪れるアガメムノンの使者たち》ドミニク・アングル
ここから『イリアス』の悲劇が動き始めます。
最強の英雄が消えたギリシャ軍
アキレウスが戦わなくなったことで、ギリシャ軍は苦境へ追い込まれます。
対するトロイア軍を率いるのが、トロイア王プリアモスの息子ヘクトルです。
ヘクトルは勇敢な戦士であると同時に、妻アンドロマケと幼い息子を愛する父親でもあります。
『イリアス』には、戦場へ向かうヘクトルと家族との別れが描かれています。英雄たちを超人的な存在として描くだけではなく、その背後にある家族や日常を描くところに『イリアス』の大きな魅力があります。

アキレウス不在の間、ヘクトル率いるトロイア軍は攻勢を強め、ギリシャ軍の船団にまで迫っていきます。
親友パトロクロスの死
この危機を見かねたのが、アキレウスの大切な仲間パトロクロスでした。
パトロクロスはアキレウスに頼み、彼の鎧を身につけて戦場へ向かいます。
「アキレウスが戻ってきた」
そうトロイア軍に思わせることで、敵を退却させようとしたのです。
作戦は大きな効果を上げます。しかし勢いに乗ったパトロクロスは深追いし、トロイアの城壁近くまで進撃します。そこでアポロンの介入を受け、トロイア兵エウポルボスに傷を負わされた末、最後はヘクトルによって討ち取られてしまいます。
そして命を落としてしまいます。

この知らせを受けたアキレウスの感情は、一変します。
アガメムノンに向けられていた「怒り」は、今度は親友を殺したヘクトルへ向かうのです。
アキレウス、戦場へ戻る
パトロクロスの死を知ったアキレウスは、アガメムノンとの確執を脇に置き、ヘクトルへの復讐のため再び戦場へ戻ります。
母である海の女神テティスは、鍛冶神ヘパイストスに新しい武具を作らせます。その中でも特に有名なのが「アキレウスの盾」です。

そしてアキレウスは、トロイア軍を猛烈な勢いで打ち破っていきます。
ついに城壁の前でヘクトルと対峙。
ギリシャ最強の英雄と、トロイア最大の英雄。
物語最大の決闘が始まります。
戦いの末、アキレウスはヘクトルを討ち取ります。
しかし親友を失った怒りは、それだけでは収まりませんでした。
アキレウスはヘクトルの遺体を戦車につなぎ、トロイアの城壁の前で引きずるという凄惨な行為に及びます。その後もパトロクロスの墓の周囲で遺体を引き回し、怒りを鎮めることができません。

英雄であるはずのアキレウス自身が、怒りによって人間性を失っていくのです。
老王プリアモスがアキレウスを訪れる
『イリアス』のクライマックスは、巨大な戦闘ではありません。
ヘクトルの父である老王プリアモスが、息子の遺体を返してもらうため、敵であるアキレウスのもとを訪れます。

プリアモスは、自分の息子を殺した男の手を取り、父親として懇願します。
その姿を見たアキレウスは、自分自身の父ペレウスを思い出します。
敵と味方。
殺した者と、殺された者の父。
二人は互いの悲しみを前に涙を流します。
アキレウスはついにヘクトルの遺体を父へ返し、葬儀を行うための時間を認めます。
そして『イリアス』は、ヘクトルの葬儀をもって終わります。
『イリアス』の主要登場人物
アキレウス
ギリシャ軍最強とされる英雄で、『イリアス』の中心人物。
人間ペレウスと海の女神テティスの息子です。圧倒的な戦闘能力を誇る一方、非常に激しい感情の持ち主でもあります。
『イリアス』は、ある意味では「アキレウスが怒り、すべてを失い、再び人間性を取り戻すまでの物語」と読むこともできます。
ヘクトル
トロイア王プリアモスの息子で、トロイア軍最大の英雄。
勇敢な戦士ですが、同時に妻アンドロマケと息子を愛する家庭人として描かれています。
敵側の人物でありながら非常に人間味があり、『イリアス』を代表する人物の一人です。
アガメムノン
ギリシャ軍の総大将。
強大な権力を持つ王ですが、アキレウスの名誉を傷つけたことによって両者の対立を引き起こします。
『イリアス』冒頭の悲劇を生み出す重要人物です。
パトロクロス
アキレウスと非常に深い絆で結ばれた人物。
アキレウスの代わりに戦場へ出たことによって、物語の流れを決定的に変えます。
彼の死が、戦場から離れていたアキレウスを再び戦いへ戻す最大のきっかけとなります。
プリアモス
トロイアの老王で、ヘクトルやパリスの父。
終盤、自ら危険を冒してアキレウスのもとを訪れます。
アキレウスとプリアモスが対面する場面は、『イリアス』全体のテーマを象徴する重要な場面です。
パリス
トロイアの王子で、ヘクトルの弟。
ヘレネをトロイアへ連れてきたことが、神話上のトロイア戦争の直接的な原因となります。
ヘレネ
絶世の美女として知られるスパルタ王メネラオスの妻。
パリスとともにトロイアへ渡ったことで、ギリシャ軍によるトロイア遠征につながります。
オデュッセウス
イタケの王で、知略に優れたギリシャ軍の英雄。
『イリアス』にも登場しますが、彼自身が主人公となるのがホメロスのもう一つの叙事詩『オデュッセイア』です。
トロイア戦争終結後、故郷イタケを目指すオデュッセウスの長い旅が描かれます。
神々も戦争に参加する
『イリアス』の面白いところは、人間同士が戦っているだけではないことです。

オリンポスの神々もそれぞれギリシャ側、トロイア側に肩入れし、人間たちの戦いへ何度も介入します。
ゼウス
オリンポスの最高神。
単純に一方の陣営へ肩入れするというより、戦争全体の運命を見守りながら神々を統率する存在として描かれます。
アテナ
知恵と戦いに関わる女神。
主にギリシャ側を支援し、アキレウスやディオメデスなどの英雄を助けます。
ヘラ
ゼウスの妻で、オリンポスの女王。
パリスの審判でアフロディテに敗れたことなどからトロイアを敵視し、ギリシャ側を支援します。
アフロディテ
愛と美の女神。
パリスの審判で自分を選んだパリスと、トロイア側を助けます。
アポロン
予言、音楽、弓などを司る神。
トロイア側を支援する重要な神で、『イリアス』冒頭ではアガメムノンの行為に怒り、ギリシャ軍へ災厄をもたらします。
テティス
海の女神で、アキレウスの母。
息子の運命を知りながら彼を見守り、ゼウスやヘパイストスに働きかけます。
神々は完全無欠の存在ではありません。
嫉妬し、怒り、騙し合い、ときには人間以上に感情的な行動を取ります。神と人間の感情が複雑に交錯することも、ギリシャ神話ならではの魅力です。
「アキレス腱」は『イリアス』に登場する?
アキレウスといえば、「かかとだけが弱点だった」というアキレス腱の伝説が有名です。
後世の伝承では、母テティスが幼いアキレウスを冥府の川ステュクスに浸した際、手でつかんでいたかかとだけ水に触れず、そこが唯一の弱点になったと語られます。
しかし注意したいのは、この有名なエピソードは『イリアス』本文には登場しないこと。
『イリアス』のアキレウスは非常に強力な戦士ですが、「かかと以外は不死身」という設定を前提として物語が進むわけではありません。
後世に広まったアキレウス伝説と、『イリアス』そのものの内容は区別しておくと理解しやすいでしょう。
「トロイアの木馬」は『イリアス』に登場しない
もう一つ非常に間違えやすいのが「トロイアの木馬」です。

トロイア戦争と聞けば、巨大な木馬の内部にギリシャ兵が隠れ、城内へ侵入する有名な作戦を思い浮かべる人も多いでしょう。
しかし、『イリアス』はトロイア陥落まで描いていません。
物語はヘクトルの葬儀で終了します。
木馬によるトロイア陥落はその後の出来事です。
トロイアの木馬については『オデュッセイア』でも言及されますが、その物語はほかの古代文献や伝承と合わせて後世まで伝えられてきました。
そのため、
『イリアス』=トロイア戦争の全記録
ではないことは覚えておきたいポイントです。
アキレウスは『イリアス』で死ぬ?
これも答えは「いいえ」です。
アキレウスの死も『イリアス』では描かれません。
後世の伝承では、アキレウスはトロイア戦争の終盤にパリスの放った矢を受けて命を落としたとされます。アポロンがその矢を導いたとする伝承もありますが、アキレウスの最期そのものは『イリアス』には描かれていません。

《アキレウスの死》ピーテル・パウル・ルーベンス
神話上の大きな流れを整理すると、
トロイア戦争の勃発
↓
戦争10年目の一時期を描く『イリアス』
↓
アキレウスの死
↓
トロイアの木馬とトロイア陥落
↓
オデュッセウスの帰国を描く『オデュッセイア』
となります。
つまり『イリアス』は、巨大なトロイア戦争伝説のすべてを描いた作品ではなく、その終盤の一部分を切り取った物語なのです。
『イリアス』と『オデュッセイア』の違い
『イリアス』と『オデュッセイア』は、ともにホメロスの作と伝えられる古代ギリシャを代表する叙事詩です。
ただし、その内容は大きく異なります。
『イリアス』の中心にあるのは、トロイア戦争とアキレウスの「怒り」。
一方、『オデュッセイア』では、戦争を生き延びた英雄オデュッセウスが故郷イタケへ帰還するまでの長い冒険が描かれます。
キュクロプス、魔女キルケ、セイレーン、カリュブディス、スキュラなど、神話上の怪物や超自然的存在が次々と現れる冒険譚としての性格がより強くなっています。
そのため、物語の流れとしては、
『イリアス』→トロイア戦争終結→『オデュッセイア』
と考えると理解しやすいでしょう。
なぜ『イリアス』は3000年近く読み継がれているのか?
『イリアス』には、神々や超人的な英雄が登場します。
それでも物語の核心にあるのは、驚くほど人間的な感情です。
自分の名誉を傷つけられたアキレウスの怒り。家族を守ろうとしながら戦場へ向かうヘクトル。友を失った悲しみ。そして息子の遺体を取り戻すため、敵の前にひざまずく老王プリアモス。
特に重要なのが、最後にアキレウスとプリアモスが互いの悲しみを共有することです。
戦争では敵だった二人が、「大切な人を失う」という人間共通の苦しみによって結びつく。
『イリアス』は、単純な英雄譚ではありません。
物語の冒頭でアキレウスを突き動かした怒りは、多くの死を経て、最後には敵の父プリアモスと悲しみを共有する場面へたどり着きます。最強の英雄でさえ友の死に泣き、敵であるヘクトルにも帰りを待つ家族がいる。戦争の英雄たちを描きながら、その内側にいる一人ひとりの人間まで描いたところに、『イリアス』の普遍性があります。
神々や英雄が登場する約3000年前の物語が現在まで読み継がれてきた理由も、そこにあるのかもしれません。
『オデュッセイア』の前に知っておきたい物語
『オデュッセイア』からギリシャ神話に興味を持った人にとって、『イリアス』はその世界をさらに深く理解するための重要な作品です。
なぜオデュッセウスは故郷から遠く離れているのか。なぜ神々が人間たちの運命にこれほど深く関わるのか。そしてトロイア戦争では何が起きていたのか。
『イリアス』を知れば、『オデュッセイア』の背後に広がる巨大な神話世界も見えてきます。
アキレウスとヘクトル、二人の英雄の運命を入口に、約3000年前から語り継がれてきた物語に触れてみてはいかがでしょうか。
